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父の命日

毎日、記録としてつけている「5年日記」もついに最後の行・・・

今年の秋には新しいのを買わないと。


この5年日記の一番上の行、2007年の5月15日には、こう書かれていました・・・・

「父、急逝」

私が上京して2ヶ月たったときでした。


・・・・・・・


親兄弟も私の東京行きに大反対はしないまでも、賛成を得られないまま振り切って上京・・・

上京してすぐから多忙な日々を送っていた私に、ゴールデン・ウィークに母から「お父さんの容態がかなり悪いので、心の準備だけはしていて欲しい」と、連絡がありました・・・
(父は何年も前から、病気を患っていました)


その10日後、父は母と弟に看取られかえらぬ人となったのです・・・

私は、父の死に目にもあえず、葬儀も仮通夜と通夜には出たものの、告別式の早朝、仕事のため東京へもどりました。

一週間後には大きなステージもあったため、ずっと何十曲もの歌のことばかり考え、正直、悲しみのスイッチはオフにしてしまっていました・・・・



あれから4年・・・・・


先日も釧路へ帰ったときに、仏壇の前で父の遺影に語りかけ・・・・

「お父さん、これでよかったんですよね・・・」


・・・・・・・

私は18歳で釧路の家を出てから今まで、一度も親と同居したことはありませんでした。

広島から帰ってきたときも、

「自分で決めたことなんだから、これからの人生も自分の責任で生きていきなさい」

と、突き放されたのでした。

愛情はもちろんあるけれど、父も母もそういう意味では子供を甘やかす人では決してなかったのです。

私は意地でも人の世話になるまいと、札幌に帰ってきても法律事務所の正職員の職を見つけ、その後もキャバレー「エンペラー」のレギュラーヴォーカル、ヤマハの「おとなのポップス教室」の講師など、必死で仕事をたくさん見つけていき、親の世話になることは一切なかったのでした。

それだけに、仕事以外で実家に帰ることはなく、最後まで父とは距離があるままとなってしまったのです・・・


父は、本当に厳しく、ちゃぶ台をひっくり返すタイプの父親でしたから、私が歌の仕事で釧路に帰っても、私に背を向け、やさしく話しかける人ではなかった・・・


でも、私は結果的に、父のそういう教育方針?かどうかはわかりませんが、これでよかったのだと思います。

人間はぬるま湯にいたのでは、人生を自ら切り開いていく力が培われないと思うので。

 
ただ、ひとつだけ残念なのは、もう少し、家族で触れ合う時間が欲しかったな・・・と・・・・


だから、この前帰ったとき、私は父の遺影の前で、「ごめんなさいね」とも「ありがとうございます」とも言わなかった・・・

ただ、一言・・・

「お父さん、これでよかったんですね」

と・・・・


私の音楽活動にはいい顔をしていなかった父でしたが、先日、母が遺品を整理していると、父の日記帳の間に私のコンサートの新聞記事の切り抜きやステージの写真を挟んでいたよ、と母から聞きました・・・・

結局、父も私も不器用で、愛情表現が下手な似た者親子だったのかも知れません。


これからは、母との時間を大切にしたいと思っています。

本当に親とは、たとえ厳しくても優しくても、無償の愛を注いでくれるありがたい存在なのだなぁとつくづく思います。
by ururu1123 | 2011-05-15 14:25